20年前のエッセイから

                                    

 息子が病気して体が動かなくなった後、私は幾度となく息子の夢を見た。夢の中の息子は元の通り元気で「ママ」と呼びながら、私に向かって走ってきた。そうだ、息子は元のままなんだ、よかった、と思う。ところが目が覚めると、目の前には動けなくなり、言葉もなくなってしまった息子がいる。これが現実だったんだと、毎朝のように、私は深い絶望感を味わった。

 病気の後、何ヵ月もの間、夢に出てくる息子は必ず病気する前の息子だった。そしてある日の夜、こんな夢を見た。息子が迷子になってしまう夢。こんな夢は前にも見たことがあった、と夢を見ながらそんな記憶がよみがえってきた。その時の息子はなかなか見つからない。迷子になる前は、もちろん走り回っていて、だからひとりでどこかに行っちゃったのだ。私と夫が一生懸命捜すのだけれど見つからない。(前に見た夢はここで息子が見つかった気がする) 方々尋ねてまわって、そのとき私は、あの子は体が動かないんだから外にいては凍えてしまう、と心配する。あの子は歩けないんだから私が迎えに行ってあげなくては、私が抱えてつれてこなくては…とそんなことを考えていた。思えばここでは病気した後の息子にすり替わっていた。それでもどうしても見つからず朝になってしまった。目が覚めて、あっ夢だったんだ、と思った。息子は結局夢の中には出てこなかった。ただ夢の中の私は初めて息子は歩けないんだと思ったのだ。

 朝目が覚めて疲労感とともに、何とも言えない不思議な感覚に包まれていた。夢の中の自分が息子は動けないんだと思ったことが、そのとき強烈に心に残った。

 その日を境に元気な頃の息子の夢はぱったりと見なくなった。たまに夢に出てくる息子は現在の息子だったし、夢と現実を混同してしまうことはなくなった。

 息子が大病して最初の半年は、今考えても一番苦しい時期だったと思う。息子が倒れた日から、まさに時間が止まってしまった状態で、私の周りの空間だけは何一つ時を刻むことがなかった。世界中が普段通りに動いているのに、私だけが取り残され、切り離されてしまっていた。ニュースは日々の動きを報じていたし、新聞にはいろいろな出来事が載っていたけれど、何も私の耳に入ってこなかった。息子が倒れたのが2月で、夏か秋になったころだったが、ニュースで細川首相という言葉を聞いて、いつのまにか日本の首相が変わっていたことを知ったくらいだった。

 ようやく止まったままの時間が動き始めた時期は、初めて夢の中で息子は動けないんだと思った時期に重なる。病気をして障がいを持った息子を受け入れようと、ようやく私自身の気持ちも動き始めた時期だったような気がする。

 今年の2月で息子が病気して8年がたった。息子が障がいをもって生きることを本当に受け入れていくには、やはり何年もの時間が必要だった。(2001.2月)

絵本

 息子が倒れた直後、意識を失って昏睡状態が続いた。私は何かに反応して意識が戻らないかと、息子が好きだった音楽をかけたり、枕元で絵本を読んだりした。

 人工呼吸器をつけた夜、その少し前には病気の勢いが強く、呼吸までが危うく途切れそうになっていた。呼吸器を取り付けるため病室内が騒然とした時間が去って、ようやく静かになったときのこと。息子は目をつむり眠っていて、室内には呼吸器が酸素を送る音と心拍数を示すモニターの機械的な音だけが響いていた。私は、思わず息子が好きだった絵本のひとつ『きかんしゃトーマスとバスのバーティ』を取り出した。静かに耳元で読むと、息子は目をつむってはいるものの、黙って聞いているように思えた。病室の蛍光灯に照らされる息子の青白い顔と絵本の鮮やかな黄色が目に焼き付いている。あの時、このまま息子の命が途切れてしまうのではないかという不安の中で、私自身の気持ちを落ち着かせるためにも、絵本を読んだ気がする。病院へ通う私のバッグの中には息子が好きだった絵本をいつも入れていた。肌身離さずお守りのように持ち歩いていたのが絵本だった。

 絵本にまつわる当時の印象的な出来事がある。息子が脳炎をおこして入院した病院に、2、3日違いで後から入院してきた女の子がいた。この子も同じインフルエンザによる脳炎で、インフルエンザが流行ったこの冬、この病院には二人の脳炎をおこした子どもが入院した。全国的にもインフルエンザから脳炎に至って重症化した例が、この年多く報告されたと聞いている。

 ところでこのもうひとりの女の子の場合、意識が朦朧となり一時は体も起こせないほどだったが、その後入院中にみるみる回復し、体が起こせるようになり、お座りができ、手も動かせるようになり、言葉もまた今まで通り話せるようになり、立てるようになり、歩けるまでに至った。ただ一つ麻痺が残ったのが、左手の手首から先だった。入院中のある日、小児病棟のプレイルームに息子とその女の子がいたときのこと。絵本を読んでいたその子が、ページをめくろうとして思うようにならない左手がもどかしかったのだろう、いきなり読んでいる本のページを口にくわえて引き裂いた。その瞬間、その子の心の痛みに、はっと気づかされたのだった。今までは、あそこまで回復してくれたのなら何も言うことはないのに、とただうらやましく思っていた私だった。でも、たった一つ左手の麻痺が残ったことが、その子にとってどれほど辛いことだったか、強く胸が痛んだ。障がいを物差しで測ることなど、到底できないのだと少しわかった気がした。

約束

息子が2歳になった頃、それまでの三輪車より自転車にあこがれ、とても欲しがっていた。公園で少し大きな子が乗っている自転車を借りて乗ってみたときは、嬉しそうにしていた。「3歳のお誕生日には自転車を買ってあげるね」私は息子と約束をした。

3歳になる前に息子は大病をして、思いもよらないことだったが、自力で起きることのできない体になった。外で子どもが自転車に乗っているのを見ると、時々息子との約束を思い出した。約束をかなえてあげられないことが、ずっと私の心にわだかまりとなって残っていた。

病気から5年以上がたち、息子が病気したとき生まれたばかりだった娘が大きくなって、父親にねだって自転車を買ってもらった。自転車は末っ子の次男がいずれ使うことを考えたのか黄緑と黄色と水色のトーンの自転車だった。嬉しそうに帰ってきた娘に、「お兄ちゃんは自転車まだもっていないから、この自転車にお兄ちゃんの名前とWちゃんの名前の両方を書いていい?」と私は尋ねた。娘はこともなげに「いいよ」と答えた。息子と娘の名を両方書いた自転車が我が家にあって、いつの間にか私の心のわだかまりは小さくなっていった。

息子の大病の2年後に、阪神淡路大震災が起きた。ある日突然に肉親や住み慣れた家を失ったり、それまでの生活が大きく変わることを余儀なくされたりした人々が報道されるたびに、私と重なる面を多く感じた。たくましく明日を信じて生きる人に元気づけられたのと同時に、「1月が来るのが怖い」とか、「暗くなると怖い」という言葉に深く共感した。本当につらい経験というのは、表面的には癒されたように思っても、何かのきっかけでその恐怖感がよみがえってくる。もしかしたら一生残っているのかもしれない。しかし、その経験があるからこそ、悲しみを感じる心がもてるのかもしれない。また他の人の悲しみも共感することができるのかもしれない。

息子の大病がもたらしたのは、「人生を深く生きる」ということだったような気がする。おおむね平凡な人生であったのなら、気づかずにいたことに気づかされる。娘が小学校に入学したとき、6歳を元気で迎えてくれたことが、本当に嬉しかった。心の底からわき上がってくるような喜びを感じた。きっとお兄ちゃんのことがあったからこそ、喜びが何倍にもなったように感じられた。日常の小さなことにも、時として深い喜びを感じることができるのは、息子がもたらしてくれた心の宝物のような気がする。

悠久の時の流れ

障がいを持った息子との生活で感じるのは、悠久の時の流れがあるということ。何を行うにもいくらかの時間が必要で、それは何物にも侵されることがない時間。

朝起きて衣服を着替えるのも時間が必要だ。朝起きたばかりで硬くなっている身体をほぐしながら、パジャマを脱がせ衣服を着る。身体の今日のコンディションを見ながら、袖を一つ一つ通す。衣服を着たら、今度は食事用の座位保持椅子までかかえていって座らせる。急いではきちんと座らせることができないので、ゆっくりと介助して、腰ベルト、胸ベルト、肩ベルト等できちっと座れるように固定する。身体がかたいときは、まずほぐしてからでないと座れない。食事はすべて介助して食べさせるのだが、1回の食事に1時間以上、出かけるなどの予定がないときは2時間くらいかかるのも珍しくはない。無理なく食べられるだけの量を口に入れ、それを噛んで飲み込むのを待つ。食事をあげる方があせると、決まってむせてしまう。息子にとってその時々で最も適切なスピードというものがある。

トイレに連れて行くのが一日に何回かあるが、これも普通の感覚ではない。まずリラックスさせ、緊張がほぐれた瞬間やっと目的を果たすことができる。周りが静かな環境でないと本人も気になってなかなかリラックスできず、したいのにできないで、静かになるまでひたすら辛抱強く息子と待つこともある。もちろん、連れて行ったけれど空振りもある。またしばらくしたら出直しだ。

息子に合わせて、食事をあげながら、私自身このゆったりした時間が気持ちよく感じられる時と、あれもこれもやることがたまっているのに、どうしてこんなに時間がかかるの、とイライラしてしまうときの両方がある。

夏に長崎の実家に帰省した時、父が「ター君にはター君時間があるね」と言っていた。忙しい忙しいと言う人と、時間がゆったりと流れる人があって、その間をとりもつのが『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)に出てくる時間どろぼうだと父は語った。私は以前読んだ『モモ』を思い出した。人の話にだまって耳を傾けることのできる女の子、大きな黒い瞳に見つめられると、皆、いい考えが浮かび、自信を失っていた人も自信が湧いてくる。そんなモモ。

息子はこの現代社会で貴重なモモのような子かもしれない。

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