星が瞬く夜に

昨年5月検査で腎臓に関する数値が悪くなっていた長男のたかあきは、6月以降ステロイドの投与で状態が少し落ち着き、夏の敗血症を乗り越え、治療を続けていました。腎生検はたかあきの場合リスクが高くて受けられなかったのですが、その後臨床的にIgA腎症という診断が出て、投与が続いたステロイドを減らすため免疫抑制剤も使いましたが、かえって強い治療は体への負担が大きくリスクがあるということで中止して、ステロイドを減らしながら主治医の先生が一生懸命治療にあたってくれました。一時期は小康状態でしたが、昨年暮れには、一旦落ち着いていたクレアチニンの値が上昇し、体に負担になることはなるべくやめて、見守っていくことになりました。

コロナが蔓延し始めて、一昨年の3月末からたかあきがいた医療施設に自由に会いに行くことができなくなりました。たかあきのいた部屋には、この施設の中でも特に医療的ケアの必要な、気管切開をしている子が他に7人いて、呼吸器をつけている子や、酸素吸入を行っている子もいました。コロナの前までは、毎日夕方たかあきの体のストレッチをして夕食時にはミキサー食を注入し、歯磨きや顔拭きをしながら、看護師さんやその他のスタッフの皆さん、お母さんたちと話をするのが私の日課でした。その慣れ親しんだ部屋が、新型コロナの出現で突然遠いところになってしまいました。「コロナ禍」の中で普通の面会が出来なくなった後の、新たな病気の発症でした。途中、大学病院の外来に何度か連れて行ったことや、一度は大学病院に入院して、行き帰りだけはそばにいることができました。たかあきがいる医療施設では、申し込んで短い時間会うことはできましたが、昨年の暮れからは特別に付き添いや泊りの許可が出て、かたわらで過ごすことができました。

(写真:小さい頃から男同士よく気持ちの通じるたかあきの弟が仕事の合間にたびたび面会に来てくれました)

お世話になっているOTのY先生が、ベッドサイドにノートと鉛筆を置いて、たかあきに鉛筆を持たせて一緒に文字を書いてくださったようです。それを使って、毎日鉛筆を持たせて日付を書くことにしました。一日一日がとても大切に思えました。

大晦日には家族全員が揃って家族写真を撮りました。家で飼っている犬のバジルも連れてきて、たかあきのいる観察室の窓の外の中庭で長女がバジルを抱えて、たかあきのベッドをみんなで囲んで記念の一枚が撮れました。

そばで付き添っているときは朝の医療ケアのルーティーンを見ながら、このような毎日を送っていたのだなと思いました。私も子どもの顔を拭いたり、口の中をスポンジできれいにしたり、手足が冷たいときは温めたり、そんな日常のちょっとしたことができるのがただただ嬉しく感じられました。たかあきは3歳前に大病して体が不自由になったので、それからの日々は機能回復のため、また体の拘縮を防ぎ可動域を維持するために毎日身体を動かしていました。両手両足や首まわりなど感覚的に硬さや動かせる範囲がわかっていたので、たまに今日はいつもより硬いという小さな変化も感じ取れました。言葉ではなくても体を触って伝わる「会話」ができたのですが、コロナが出現して、直接触れることができなくなり、それが年単位で続くことは、どうすることもできない突然作られた巨大な壁のようでした。たかあきにとっては、そのような中での病気との闘いだったと思います。コロナになってからの短い面会では十分にわからなかった病気との闘いのあとが、身体のいたるところに見て取れて、ずっと一人で頑張ってきたのが痛いほど伝わりました。

家からDVDプレーヤーを病室に持ってきて、「ベイマックス」や「レミーのおいしいレストラン」なども枕元でつけていました。「ベイマックス」は以前から気に入っていて、家に帰ってきた時何度も見た作品です。映画の中にはたかあきによく似た優しい兄タダシが出てきます。家でレンタルで借りてきたDVD「グレイテスト・ショーマン」を見たことがありましたが、この映画は最初から最後までずっと見入っていたので、たかあきの心に響いたのだと思います。病室ではサウンドトラックのCDを時々かけていました。

(写真:手の乾燥を防ぐためワセリンを塗る)

看護師さんたちが明るい顔で一生懸命ケアに当たってくださっていて、同時にたかあきの状態が厳しいことは、スタッフの様子からもひしひしと感じられました。

大晦日の夜、ナースステーションでは、明日みんながひくための「おみくじ」を作っている姿がありました。夜勤帯には病棟の電気が落とされ、静かになるのですが時折機器の警報音が鳴り響き静寂をやぶっていました。夜中の0時を過ぎると、夜勤の看護師さんの「おめでとう!」の声が聞こえました。無事新年を迎えることができたのだと思いました。たかあきのいる観察室にも挨拶に来てくれました。元旦の朝、この施設のデイルームの窓から初日の出を見ました。明るい日の光が差し込んでいました。

元旦の日もたかあきのベッドのまわりに家族がそろい、ホワイトタイガーの描かれた箱から手作りのおみくじをひきました。それから、たかあき宛に家に届いた年賀状を耳元で読みました。学校の先生や機能回復訓練でお世話になった方など今でもたかあきに年賀状をくださっています。聴力はしっかりしていて、声をよく聞いていました。

(写真:妹がたかあきの手をとってノートに書初め)

1月2日、年末からは少しずつ血圧が下がっていましたが、この日は急に心拍が下がったり、酸素濃度が下がったりしてモニターの警報がなり、またすぐ戻るということを繰り返していました。微熱も出て、背中をアイスノンで冷やしてもらいました。この観察室の窓から、冬の澄み切った空が見えていました。

年末からたびたび面会に来ていたたかあきの弟がこの日は熱を出してしまい、当然ながら病棟に入ることはできず家でダウンしてしまいました。小さい頃から男の子2人はいつも風邪をうつし合っていて、どちらかが熱を出すともう片方も熱を出したり、続けて胃腸炎になったりすることがよくあったのですが、この日も昔と同じだなと思いました。不思議に真ん中のたかあきの妹はほとんどうつらずに済んで、母の私としてはとても助かっていました。

たかあきの妹がたー君絶対気に入ると言っていたDVD「ズートピア」をネットで注文して届いたからと夜の9時前に車を飛ばしてもって来てくれました。「ズートピア」をすぐつけて、終わるまで見ました。11時過ぎに全部見たあと、それまで荒い呼吸を続けていたたかあきが、しだいに静かな息になってきました。娘に「ズートピア全部見たよ。今夜無事越せるといいね」とラインしてまもなく、心拍数がゆっくりと下がってきました。

最後までとても穏やかな顔でした。日付は1月3日になっていました。

すべてが終わって、病棟を出るとき、空に星が瞬いていました。たかあきはずっと長い旅をしていて、31年間だけ、ここに来てそばにいてくれて、またあの星のひとつに帰っていったのかもしれないと、そんな気がしました。

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