ワークショップ

原田マハさんの短編集『常設展示室』を読みました。最初の短編「群青(The Color of Life)」の主人公はメトロポリタン美術館で働く女性。障がいを持った子どもたちのためのワークショップの開催に向けて物語は展開します。(小説はとても心に刺さるものでした。マハさんの美術界を舞台にした小説を読むと美術館に行きたくなります)

身近に障がいのある子どもも参加できる美術館のワークショップはないか、調べてみました。コロナの感染が広がって以降、直接参加できるものはかなり数が減っているようです。

横須賀美術館の障害児者向けワークショップでは、障害のある子どもと家族に向けた「みんなのアトリエ」というプログラムを企画しています。ただ、現在は来館型のものは休止となりオンラインでの公開となっています。大きな紙に色を塗ったり、好きな感触の素材で「ふしぎな生き物」を作ったり、身の回りのにおいを探したり、と自宅でいろいろなことが体験できるワークショップとなっています。

障害児者向けワークショップ おうちでできる「みんなのアトリエ」 | イベント | 横須賀美術館 (yokosuka-moa.jp)

ワークショップではありませんが、車いすに乗る長男も一緒に家族で美術館や歴史館などに行ったことが何回かありました。東京都美術館の『大英博物館の至宝展』に行ったときは、休日でしたので入館まで長蛇の列ができていました。どうしようと迷ったのですが、せっかく来たからと並んで待っていると、スタッフの人に声を掛けられ、車いすの人は専用の入り口があるからと別ルートを案内されて家族も一緒に入ることができました。ただ、混んだ会場では車いすが人にぶつからないか気を取られ、あまり鑑賞した気持ちではなかったという思い出があります。車いすに乗っているとどうしても視界が限られるので、長男は展示品を見るというより、展示品に見入る人々を観察しているようでした。

たかあき 学校での作品作り(中学部1年の頃)

読み聞かせの活動を通して出会った印象深い絵本のひとつに『わすれられない おくりもの』(スーザン・バーレイ作・絵/評論社)があります。年老いたアナグマがこの世を去るときの情景、そして残った周りの動物たちがそのことを受け止めてゆく様子が描かれています。年老いて体の自由がきかなくなったアナグマが、ある日の夜ぐっすりと眠りにつき、天に帰っていく途中で体が楽になり昔のように走っている姿がありました。初めてこの絵本を見たとき、いつかたかあきも身体が自由になって駆けていくそんな時がくるのかもしれないと想像しました。

たかあきの妹が、小・中学校時代の友だちに兄が亡くなったことを知らせたところ、一人の子が次のようなメールをくれました。

「…そうか。本当は亡くなってしまう前に一目会いたかったな。とても残念で、もう会えないのが悲しいです。私もたーくんに遊んでもらった事や笑った顔は今でもちゃんと覚えているよ。…私は小学生の頃から障がいをもっているたーくんと接する事ができたおかげで、偏見なく当たり前に感じて大人になれて、とても感謝しています。たー兄さん、本当にありがとうございました。…」

みんなの心にも何かを残してくれたとしたら、それは、たかあきからの「おくりもの」かもしれません。

昨年5月検査で腎臓に関する数値が悪くなっていた長男のたかあきは、6月以降ステロイドの投与で状態が少し落ち着き、夏の敗血症を乗り越え、治療を続けていました。腎生検はたかあきの場合リスクが高くて受けられなかったのですが、その後臨床的にIgA腎症という診断が出て、投与が続いたステロイドを減らすため免疫抑制剤も使いましたが、かえって強い治療は体への負担が大きくリスクがあるということで中止して、ステロイドを減らしながら主治医の先生が一生懸命治療にあたってくれました。一時期は小康状態でしたが、昨年暮れには、一旦落ち着いていたクレアチニンの値が上昇し、体に負担になることはなるべくやめて、見守っていくことになりました。

コロナが蔓延し始めて、一昨年の3月末からたかあきがいた医療施設に自由に会いに行くことができなくなりました。たかあきのいた部屋には、この施設の中でも特に医療的ケアの必要な、気管切開をしている子が他に7人いて、呼吸器をつけている子や、酸素吸入を行っている子もいました。コロナの前までは、毎日夕方たかあきの体のストレッチをして夕食時にはミキサー食を注入し、歯磨きや顔拭きをしながら、看護師さんやその他のスタッフの皆さん、お母さんたちと話をするのが私の日課でした。その慣れ親しんだ部屋が、新型コロナの出現で突然遠いところになってしまいました。「コロナ禍」の中で普通の面会が出来なくなった後の、新たな病気の発症でした。途中、大学病院の外来に何度か連れて行ったことや、一度は大学病院に入院して、行き帰りだけはそばにいることができました。たかあきがいる医療施設では、申し込んで短い時間会うことはできましたが、昨年の暮れからは特別に付き添いや泊りの許可が出て、かたわらで過ごすことができました。

(写真:小さい頃から男同士よく気持ちの通じるたかあきの弟が仕事の合間にたびたび面会に来てくれました)

お世話になっているOTのY先生が、ベッドサイドにノートと鉛筆を置いて、たかあきに鉛筆を持たせて一緒に文字を書いてくださったようです。それを使って、毎日鉛筆を持たせて日付を書くことにしました。一日一日がとても大切に思えました。

大晦日には家族全員が揃って家族写真を撮りました。家で飼っている犬のバジルも連れてきて、たかあきのいる観察室の窓の外の中庭で長女がバジルを抱えて、たかあきのベッドをみんなで囲んで記念の一枚が撮れました。

そばで付き添っているときは朝の医療ケアのルーティーンを見ながら、このような毎日を送っていたのだなと思いました。私も子どもの顔を拭いたり、口の中をスポンジできれいにしたり、手足が冷たいときは温めたり、そんな日常のちょっとしたことができるのがただただ嬉しく感じられました。たかあきは3歳前に大病して体が不自由になったので、それからの日々は機能回復のため、また体の拘縮を防ぎ可動域を維持するために毎日身体を動かしていました。両手両足や首まわりなど感覚的に硬さや動かせる範囲がわかっていたので、たまに今日はいつもより硬いという小さな変化も感じ取れました。言葉ではなくても体を触って伝わる「会話」ができたのですが、コロナが出現して、直接触れることができなくなり、それが年単位で続くことは、どうすることもできない突然作られた巨大な壁のようでした。たかあきにとっては、そのような中での病気との闘いだったと思います。コロナになってからの短い面会では十分にわからなかった病気との闘いのあとが、身体のいたるところに見て取れて、ずっと一人で頑張ってきたのが痛いほど伝わりました。

家からDVDプレーヤーを病室に持ってきて、「ベイマックス」や「レミーのおいしいレストラン」なども枕元でつけていました。「ベイマックス」は以前から気に入っていて、家に帰ってきた時何度も見た作品です。映画の中にはたかあきによく似た優しい兄タダシが出てきます。家でレンタルで借りてきたDVD「グレイテスト・ショーマン」を見たことがありましたが、この映画は最初から最後までずっと見入っていたので、たかあきの心に響いたのだと思います。病室ではサウンドトラックのCDを時々かけていました。

(写真:手の乾燥を防ぐためワセリンを塗る)

看護師さんたちが明るい顔で一生懸命ケアに当たってくださっていて、同時にたかあきの状態が厳しいことは、スタッフの様子からもひしひしと感じられました。

大晦日の夜、ナースステーションでは、明日みんながひくための「おみくじ」を作っている姿がありました。夜勤帯には病棟の電気が落とされ、静かになるのですが時折機器の警報音が鳴り響き静寂をやぶっていました。夜中の0時を過ぎると、夜勤の看護師さんの「おめでとう!」の声が聞こえました。無事新年を迎えることができたのだと思いました。たかあきのいる観察室にも挨拶に来てくれました。元旦の朝、この施設のデイルームの窓から初日の出を見ました。明るい日の光が差し込んでいました。

元旦の日もたかあきのベッドのまわりに家族がそろい、ホワイトタイガーの描かれた箱から手作りのおみくじをひきました。それから、たかあき宛に家に届いた年賀状を耳元で読みました。学校の先生や機能回復訓練でお世話になった方など今でもたかあきに年賀状をくださっています。聴力はしっかりしていて、声をよく聞いていました。

(写真:妹がたかあきの手をとってノートに書初め)

1月2日、年末からは少しずつ血圧が下がっていましたが、この日は急に心拍が下がったり、酸素濃度が下がったりしてモニターの警報がなり、またすぐ戻るということを繰り返していました。微熱も出て、背中をアイスノンで冷やしてもらいました。この観察室の窓から、冬の澄み切った空が見えていました。

年末からたびたび面会に来ていたたかあきの弟がこの日は熱を出してしまい、当然ながら病棟に入ることはできず家でダウンしてしまいました。小さい頃から男の子2人はいつも風邪をうつし合っていて、どちらかが熱を出すともう片方も熱を出したり、続けて胃腸炎になったりすることがよくあったのですが、この日も昔と同じだなと思いました。不思議に真ん中のたかあきの妹はほとんどうつらずに済んで、母の私としてはとても助かっていました。

たかあきの妹がたー君絶対気に入ると言っていたDVD「ズートピア」をネットで注文して届いたからと夜の9時前に車を飛ばしてもって来てくれました。「ズートピア」をすぐつけて、終わるまで見ました。11時過ぎに全部見たあと、それまで荒い呼吸を続けていたたかあきが、しだいに静かな息になってきました。娘に「ズートピア全部見たよ。今夜無事越せるといいね」とラインしてまもなく、心拍数がゆっくりと下がってきました。

最後までとても穏やかな顔でした。日付は1月3日になっていました。

すべてが終わって、病棟を出るとき、空に星が瞬いていました。たかあきはずっと長い旅をしていて、31年間だけ、ここに来てそばにいてくれて、またあの星のひとつに帰っていったのかもしれないと、そんな気がしました。

津田塾大学の学生・大学院生が取り組んでいる「まなキキプロジェクト」では、コロナ禍で「学びの危機」に直面している障がいをもった子どもたちを支援する活動を行っています。

以前、このサイトで「まなキキプロジェクト」が企画したオンライン社会科見学をご紹介したことがありました。その時の見学先だった沖縄のワーカーズホームさん(障害者就労の自家焙煎珈琲店)と「まなキキプロジェクト」が共同開発したコーヒーが「まなキキ・ブレンド」です。12月27日に開始するクラウドファンディングにより資金を集め、オンライン家庭教師事業の実現を目指しています。収益は、働く障がい者の給料に還元される他、まなキキプロジェクトが企画する障がいある子どもたち向けオンライン家庭教師事業の運営費として活用されます。障がいを持って働く人、学びたい子どもたち、教える経験を積みたい大学生を結んだ事業計画です。

若い人たちが、ネット環境をうまく活用して、自分たちが感じている問題点に対して、解決の糸口を探し積極的にアクションを起こしていることは、とても頼もしく感じます。

●まなキキ・ブレンドについて詳しく知りたい方は以下をご覧ください。

●以下はクラウドファンディングについての詳細です。申し込みページは12月27日14:00にオープンします。

申し込みページへはこちらをクリックしてください。

●障がいをもった子どもたちのオンライン家庭教師について知りたい方は以下をご覧ください。

コロナ禍にあって、視覚や聴覚に障がいを持つ人々が困っているというTVの報道を目にしました。視覚に障がいを持つ人にとっては街の人出が減ることにより、耳から来る情報がかなり少なくなったそうです。お店の前を通って、そこから聞こえる人の動きや券売機などの音を聞き、今どこにいるかを把握していたそうですが、そのような日常の音がコロナによって減ってしまい、外を歩くのが難しくなったと聞きました。また聴覚に障がいがある人にとっては人々がマスクをつけることで、口の動きを見ることができなくなり、相手の言葉を理解しづらくなっているそうです。特に口の動きで言葉を読み取る訓練をしている子どもたちにとっては、深刻な問題です。

重い障がいを持つ長男が先日2週間ほど大学病院に入院しましたが、今は面会禁止で病室に入ることはできませんでした。体を自由に動かせず言葉で意思を伝えることができない長男が、慣れない環境でどうしているのか大変気がかりでした。新型コロナウイルスの感染防止のための面会禁止とはいえ、意思を伝えられない子どものそばに行けないという状況は、親にとってとても辛いものだと身にしみました。コロナ禍によるとてつもない隔たりを感じた時間でした。

退院の日、病棟内のデイルームで待っていると、窓から電車が通るのが見えました。ちょうど5階の病棟から目の高さくらいに高架線があり、こんな近くを通っているのだと気がつきました。防音になっているらしくあまり音は聞こえないのですが、耳を澄ますと電車の音が聞こえてきました。子どものいた病室はデイルームの並びですから、また窓際のベッドだと主治医の先生から聞いていたので、電車の音を聞いていたかもしれません。今は気管切開をしていて声は出せませんが、長男は子どもの頃から耳に入ってくる音に反応して笑い声をあげることがありました。台所から聞こえてくる野菜を切る音や、あわてた足音が聞こえて急に笑い出すこともあり、きっと、身の回りの音や話し声の音色や響きを楽しんでいるんだなと思っていました。小さい頃から乗り物が大好きでしたから、今回の入院中、電車と電車がすれ違う音、単独で通り過ぎる音、駅を出て加速する音など、様々な電車の音が聞こえたことは嬉しかったかもしれないと想像しました。

 東京2020パラリンピックの開会式で、車椅子の13歳の女の子が演じたのが「片翼の小さな飛行機」というストーリーです。テレビで見ていて引き込まれました。

 同時に長男が通っていた特別支援学校の文化祭で見た車椅子ダンスを思い出していました。たぶん踊っていたのは中学部、高等部くらいの生徒だったと思うのですが、みんな真剣にそしてとても楽しそうに車椅子を上手に動かしながら踊っていました。長男の同級生には車椅子マラソンの競技大会に参加している生徒がいて、学校を囲む柵にそれを知らせる幕が掲げられたときは、とても誇らしい気持ちがしました。

 学校ではボッチャが盛んで、この競技名を聞いたのは長男の入学後間もない頃です。今はボッチャという名も知られるようになりましたが、初めて連絡帳に「今日は体育館でボッチャをやりました。」と書いてあったとき、「ボッチャ」ってなんだろう?と思ったことを覚えています。他校との交流会でもよく使われていて、健常の生徒とも一緒に楽しめる競技だと知りました。長男は指を離すだけでボールを動かせる滑り台のような器具を使わせてもらっていました。支援学校の先生方は特技を持つ器用な先生方が多かったので、先生が障害の重い子でも参加できるよう作ってくれたのかなと思っていましたが、これは「ランプ」と呼ばれる競技の正式な道具のひとつだと後から知りました。ちなみに、ボッチャの起源は古く、古代ギリシャの球投げに由来しているそうです。6世紀には今のボッチャの原型が生まれ、語源はラテン語の「bottia」から来ていると言われています。

 学校では、呼吸に困難があるため頑張って呼吸をしている子、嚥下機能が十分でなくて頑張って口から食べている子など、様々な困難とともに生活する子どもたちをたくさん見てきました。障がいを持つ子どもたちは、それぞれの場で毎日頑張っているのだなと思います。「片翼の小さな飛行機」のように、ひとりひとりが自分の翼で羽ばたける日が来ることを、そんな社会に近づけることを願っています。

↑長男たかあきが機能回復訓練を始めて10年目の夏、妹(当時10歳)が作った金メダル