写真展「透明人間-Invisible Mom-」(2)

写真家 山本美里さんに聞く

旧国立駅舎から場所を変え、くにたち・こくぶんじ市民プラザで開かれていた写真展「透明人間-Invisible Mom-」「#BFF」の会場で写真家の山本美里さんにお会いしました。

会場の様子とともに山本さんのお話を紹介します。

写真家 山本美里さん

保護猫の預かりボランティア活動もやっている山本さん。写真を始めたきっかけは、保護猫のかわいい写真をSNSに上げて里親探しに役立てたいと思ったこと。

医療的ケア児である子どもの通学のため付き添いで一日何時間も学校で過ごしていた頃、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の通信教育で写真を学ぶことを決意。東京でスクーリングが受けられたため週末は子どもを家族に託してスクーリングに出かけた。子どもと離れ集中できる貴重な時間だった。3年をかけて卒業。「透明人間」の写真は卒業制作で撮影したものが中心。子どもが中2になった今、あの時だから撮れた作品と振り返る。

カメラはミラーレスを使用しているが、スマホも活用している。時には三脚2台を用いての撮影。学校で「子どもよりお母さんの荷物が多いですね」といわれるほどだ。毎回構図を練って撮影に挑む。特別支援学校の先生方にも被写体として協力してもらっている。その他被写体の一人がまあ君というお人形。教職員が気管切開や経管栄養についての研修に使用するもので保健室にある実物大のお人形だ。被写体への山本さんの眼差しは暖かい。

山本さんの写真集「透明人間」より

最初はこんな生活を強いられています、といういわば「愚痴日記」でもあったが、写真という作品にすることで状況を客観視できたと言う。

目を引く作品のひとつに気管切開をした喉の写真がある。器具を外したそのままの姿だ。つまり喉に穴があいているというもの。私の長男も気管切開をしていたが、それが作品となることがある意味衝撃的だった。そのことを山本さんに聞いたところ、大学の指導の先生から、「美しいと思うものであるなら、撮っていけないものはない」と言われたそう。お風呂で器具を外したときに撮ったもの。ただ赤みを消すため作品はモノクロにした。

子どもの病気の進行などたえず心配や不安のある毎日。だからこそ今を撮ることを大事にしている。

机の上に並ぶ写真は、学校のエレベーター内で撮ったもの。付き添いで通学し、学校についてエレベーターに乗る。その毎日を定点観測している。同じ場所だからこそ、日々の小さな変化が感じられ、時にはお面をかぶるなど「遊び」が入るのも魅力。毎日エレベーターに乗って降りるまでの数秒が勝負だ。同時に、医療的ケア児専用のスクールバスを運行するという東京都の方針により、子どもだけの登校が果たして実現できるかどうかということを伝える記録でもある。もしできなかったら、卒業まで写真は続く。

卒業制作の「透明人間」から、新たなステップへ

生活の一面を切り取って、エスプリを効かせた作品づくりに現在取り組んでいる。身の回りのあらゆるものを素材と考え、見ていて思わず笑いがこぼれるような作品群を生み出している。経管栄養や胃ろうの注入に使用するシリンジ(注射器のような形をした医療器具)を素材にした作品もあり、医療器具がアートになっているというのはとても新鮮だった。山本さんによると海外の製品は色がとてもカラフルという。「B.F.F.」という作品にはお母さんと障がいを持つ子が宇宙を背景に明るく表現されている。B.F.F.(Best Friend Forever)まさに同感!

映像の作品や、動画を静止画にした作品など領域は広がりつつある。作品の制作について語る山本さんは生き生きとして本当に楽しそうだった。

*今回の展示は終了しましたが、来年(2023年)全国3か所での開催が予定されています。

国立市の旧国立駅舎で開催されていた山本美里さんの写真展「透明人間-Invisible Mom-」を見に行きました。

子どものひとりが重い障がいを持つ写真家山本美里さんが撮った写真には、特別支援学校を中心に生活の様子が映し出されています。親として子どもの付き添いで通う学校生活で感じたことをカメラのフィルターを通して表現しています。何より私に響いたのは、テーマがお母さん自身だったこと。障がいを持つ子どもがいても自分の人生を生きているという姿がとても魅力的でした。

山本さんのお子さんは重い障がいをもち、しかも気管切開をしているいわゆる医療的ケア児です。痰の吸引や呼吸の管理が必要となるため、学校では保護者の付き添いが求められてきました。ただ常時子どものそばにいるのではなく、体調が急変したときなど親でなければできない医療行為をするために子どもとは少し離れた控室で待機しています。私の長男が特別支援学校に通っていた最初の頃の医療的ケア児は、在宅のまま先生が訪問する訪問学校か、あるいは保護者の付き添いで登校し下校まで保護者が学校に待機するという二択しかありませんでした。その後、学校に常勤の看護師が配置されるようになり、少しずつ保護者の負担は緩和されてはきましたが、それでもまだ保護者に求められる役割は多いのが現状です。

写真展のタイトル「透明人間」は、学校に付き添いを求められていながら、学校は子どもたちの自立の場であるからお母さんは気配を消してください、と言われたことから来ています。Invisible Man(透明人間)転じてInvisible Mom(透明お母さん)というわけです。多くの時間何もなく待機しているだけ、でも「私はここにいる!」という山本さんの心の叫びが聞こえてきます。長男の同級生の中には入学当時はスクールバスで通えたのに、在学中に経管栄養になったり、胃ろうの手術を受けたりして医療的ケア児になる子が何人もいました。スクールバスで通える子どもの場合、学校に行っている時間だけ付きっきりで世話をすることから離れ、親は自分の時間が持てるのですが、医療的ケア児の親はその間も学校で待機しなくてはならないという過酷な現実があります。当事者である山本さんはそれに対して声を上げ、写真と言う形でシーンを切り取り多くの人に見てもらうことで、その困難さを広く知らせようとしています。

写真集も発売されています。ゆっくりページを開いてゆくと、重い障がいを持つ子どもがいるという私にとってたいへん馴染みのある光景や特別支援学校の様子は無性に懐かしく思いました。ユーモラスな表現もありながら時に社会に問う姿勢が強く感じられます。山本さんの写真集に次の言葉があります。

子供たちがどんな風に生まれてきても、

私たち「母親」が自分たちの人生を

自分たちで選択できる時代がきっとやってきます。

旧国立駅舎にて開催された写真展「透明人間-Invisible Mom-」

原田マハさんの短編集『常設展示室』を読みました。最初の短編「群青(The Color of Life)」の主人公はメトロポリタン美術館で働く女性。障がいを持った子どもたちのためのワークショップの開催に向けて物語は展開します。(小説はとても心に刺さるものでした。マハさんの美術界を舞台にした小説を読むと美術館に行きたくなります)

身近に障がいのある子どもも参加できる美術館のワークショップはないか、調べてみました。コロナの感染が広がって以降、直接参加できるものはかなり数が減っているようです。

横須賀美術館の障害児者向けワークショップでは、障害のある子どもと家族に向けた「みんなのアトリエ」というプログラムを企画しています。ただ、現在は来館型のものは休止となりオンラインでの公開となっています。大きな紙に色を塗ったり、好きな感触の素材で「ふしぎな生き物」を作ったり、身の回りのにおいを探したり、と自宅でいろいろなことが体験できるワークショップとなっています。

障害児者向けワークショップ おうちでできる「みんなのアトリエ」 | イベント | 横須賀美術館 (yokosuka-moa.jp)

ワークショップではありませんが、車いすに乗る長男も一緒に家族で美術館や歴史館などに行ったことが何回かありました。東京都美術館の『大英博物館の至宝展』に行ったときは、休日でしたので入館まで長蛇の列ができていました。どうしようと迷ったのですが、せっかく来たからと並んで待っていると、スタッフの人に声を掛けられ、車いすの人は専用の入り口があるからと別ルートを案内されて家族も一緒に入ることができました。ただ、混んだ会場では車いすが人にぶつからないか気を取られ、あまり鑑賞した気持ちではなかったという思い出があります。車いすに乗っているとどうしても視界が限られるので、長男は展示品を見るというより、展示品に見入る人々を観察しているようでした。

たかあき 学校での作品作り(中学部1年の頃)

読み聞かせの活動を通して出会った印象深い絵本のひとつに『わすれられない おくりもの』(スーザン・バーレイ作・絵/評論社)があります。年老いたアナグマがこの世を去るときの情景、そして残った周りの動物たちがそのことを受け止めてゆく様子が描かれています。年老いて体の自由がきかなくなったアナグマが、ある日の夜ぐっすりと眠りにつき、天に帰っていく途中で体が楽になり昔のように走っている姿がありました。初めてこの絵本を見たとき、いつかたかあきも身体が自由になって駆けていくそんな時がくるのかもしれないと想像しました。

たかあきの妹が、小・中学校時代の友だちに兄が亡くなったことを知らせたところ、一人の子が次のようなメールをくれました。

「…そうか。本当は亡くなってしまう前に一目会いたかったな。とても残念で、もう会えないのが悲しいです。私もたーくんに遊んでもらった事や笑った顔は今でもちゃんと覚えているよ。…私は小学生の頃から障がいをもっているたーくんと接する事ができたおかげで、偏見なく当たり前に感じて大人になれて、とても感謝しています。たー兄さん、本当にありがとうございました。…」

みんなの心にも何かを残してくれたとしたら、それは、たかあきからの「おくりもの」かもしれません。

昨年5月検査で腎臓に関する数値が悪くなっていた長男のたかあきは、6月以降ステロイドの投与で状態が少し落ち着き、夏の敗血症を乗り越え、治療を続けていました。腎生検はたかあきの場合リスクが高くて受けられなかったのですが、その後臨床的にIgA腎症という診断が出て、投与が続いたステロイドを減らすため免疫抑制剤も使いましたが、かえって強い治療は体への負担が大きくリスクがあるということで中止して、ステロイドを減らしながら主治医の先生が一生懸命治療にあたってくれました。一時期は小康状態でしたが、昨年暮れには、一旦落ち着いていたクレアチニンの値が上昇し、体に負担になることはなるべくやめて、見守っていくことになりました。

コロナが蔓延し始めて、一昨年の3月末からたかあきがいた医療施設に自由に会いに行くことができなくなりました。たかあきのいた部屋には、この施設の中でも特に医療的ケアの必要な、気管切開をしている子が他に7人いて、呼吸器をつけている子や、酸素吸入を行っている子もいました。コロナの前までは、毎日夕方たかあきの体のストレッチをして夕食時にはミキサー食を注入し、歯磨きや顔拭きをしながら、看護師さんやその他のスタッフの皆さん、お母さんたちと話をするのが私の日課でした。その慣れ親しんだ部屋が、新型コロナの出現で突然遠いところになってしまいました。「コロナ禍」の中で普通の面会が出来なくなった後の、新たな病気の発症でした。途中、大学病院の外来に何度か連れて行ったことや、一度は大学病院に入院して、行き帰りだけはそばにいることができました。たかあきがいる医療施設では、申し込んで短い時間会うことはできましたが、昨年の暮れからは特別に付き添いや泊りの許可が出て、かたわらで過ごすことができました。

(写真:小さい頃から男同士よく気持ちの通じるたかあきの弟が仕事の合間にたびたび面会に来てくれました)

お世話になっているOTのY先生が、ベッドサイドにノートと鉛筆を置いて、たかあきに鉛筆を持たせて一緒に文字を書いてくださったようです。それを使って、毎日鉛筆を持たせて日付を書くことにしました。一日一日がとても大切に思えました。

大晦日には家族全員が揃って家族写真を撮りました。家で飼っている犬のバジルも連れてきて、たかあきのいる観察室の窓の外の中庭で長女がバジルを抱えて、たかあきのベッドをみんなで囲んで記念の一枚が撮れました。

そばで付き添っているときは朝の医療ケアのルーティーンを見ながら、このような毎日を送っていたのだなと思いました。私も子どもの顔を拭いたり、口の中をスポンジできれいにしたり、手足が冷たいときは温めたり、そんな日常のちょっとしたことができるのがただただ嬉しく感じられました。たかあきは3歳前に大病して体が不自由になったので、それからの日々は機能回復のため、また体の拘縮を防ぎ可動域を維持するために毎日身体を動かしていました。両手両足や首まわりなど感覚的に硬さや動かせる範囲がわかっていたので、たまに今日はいつもより硬いという小さな変化も感じ取れました。言葉ではなくても体を触って伝わる「会話」ができたのですが、コロナが出現して、直接触れることができなくなり、それが年単位で続くことは、どうすることもできない突然作られた巨大な壁のようでした。たかあきにとっては、そのような中での病気との闘いだったと思います。コロナになってからの短い面会では十分にわからなかった病気との闘いのあとが、身体のいたるところに見て取れて、ずっと一人で頑張ってきたのが痛いほど伝わりました。

家からDVDプレーヤーを病室に持ってきて、「ベイマックス」や「レミーのおいしいレストラン」なども枕元でつけていました。「ベイマックス」は以前から気に入っていて、家に帰ってきた時何度も見た作品です。映画の中にはたかあきによく似た優しい兄タダシが出てきます。家でレンタルで借りてきたDVD「グレイテスト・ショーマン」を見たことがありましたが、この映画は最初から最後までずっと見入っていたので、たかあきの心に響いたのだと思います。病室ではサウンドトラックのCDを時々かけていました。

(写真:手の乾燥を防ぐためワセリンを塗る)

看護師さんたちが明るい顔で一生懸命ケアに当たってくださっていて、同時にたかあきの状態が厳しいことは、スタッフの様子からもひしひしと感じられました。

大晦日の夜、ナースステーションでは、明日みんながひくための「おみくじ」を作っている姿がありました。夜勤帯には病棟の電気が落とされ、静かになるのですが時折機器の警報音が鳴り響き静寂をやぶっていました。夜中の0時を過ぎると、夜勤の看護師さんの「おめでとう!」の声が聞こえました。無事新年を迎えることができたのだと思いました。たかあきのいる観察室にも挨拶に来てくれました。元旦の朝、この施設のデイルームの窓から初日の出を見ました。明るい日の光が差し込んでいました。

元旦の日もたかあきのベッドのまわりに家族がそろい、ホワイトタイガーの描かれた箱から手作りのおみくじをひきました。それから、たかあき宛に家に届いた年賀状を耳元で読みました。学校の先生や機能回復訓練でお世話になった方など今でもたかあきに年賀状をくださっています。聴力はしっかりしていて、声をよく聞いていました。

(写真:妹がたかあきの手をとってノートに書初め)

1月2日、年末からは少しずつ血圧が下がっていましたが、この日は急に心拍が下がったり、酸素濃度が下がったりしてモニターの警報がなり、またすぐ戻るということを繰り返していました。微熱も出て、背中をアイスノンで冷やしてもらいました。この観察室の窓から、冬の澄み切った空が見えていました。

年末からたびたび面会に来ていたたかあきの弟がこの日は熱を出してしまい、当然ながら病棟に入ることはできず家でダウンしてしまいました。小さい頃から男の子2人はいつも風邪をうつし合っていて、どちらかが熱を出すともう片方も熱を出したり、続けて胃腸炎になったりすることがよくあったのですが、この日も昔と同じだなと思いました。不思議に真ん中のたかあきの妹はほとんどうつらずに済んで、母の私としてはとても助かっていました。

たかあきの妹がたー君絶対気に入ると言っていたDVD「ズートピア」をネットで注文して届いたからと夜の9時前に車を飛ばしてもって来てくれました。「ズートピア」をすぐつけて、終わるまで見ました。11時過ぎに全部見たあと、それまで荒い呼吸を続けていたたかあきが、しだいに静かな息になってきました。娘に「ズートピア全部見たよ。今夜無事越せるといいね」とラインしてまもなく、心拍数がゆっくりと下がってきました。

最後までとても穏やかな顔でした。日付は1月3日になっていました。

すべてが終わって、病棟を出るとき、空に星が瞬いていました。たかあきはずっと長い旅をしていて、31年間だけ、ここに来てそばにいてくれて、またあの星のひとつに帰っていったのかもしれないと、そんな気がしました。

津田塾大学の学生・大学院生が取り組んでいる「まなキキプロジェクト」では、コロナ禍で「学びの危機」に直面している障がいをもった子どもたちを支援する活動を行っています。

以前、このサイトで「まなキキプロジェクト」が企画したオンライン社会科見学をご紹介したことがありました。その時の見学先だった沖縄のワーカーズホームさん(障害者就労の自家焙煎珈琲店)と「まなキキプロジェクト」が共同開発したコーヒーが「まなキキ・ブレンド」です。12月27日に開始するクラウドファンディングにより資金を集め、オンライン家庭教師事業の実現を目指しています。収益は、働く障がい者の給料に還元される他、まなキキプロジェクトが企画する障がいある子どもたち向けオンライン家庭教師事業の運営費として活用されます。障がいを持って働く人、学びたい子どもたち、教える経験を積みたい大学生を結んだ事業計画です。

若い人たちが、ネット環境をうまく活用して、自分たちが感じている問題点に対して、解決の糸口を探し積極的にアクションを起こしていることは、とても頼もしく感じます。

●まなキキ・ブレンドについて詳しく知りたい方は以下をご覧ください。

●以下はクラウドファンディングについての詳細です。申し込みページは12月27日14:00にオープンします。

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